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金沢市: 歴史

金沢市: 歴史

=== 太平洋戦争以前 ===
「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。
「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊澤」と呼ばれている。
古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている。
権門体制から幕藩体制への過渡期の時代、荘園性の崩壊と重課税で混沌とした中世には、強い支持を得た本願寺関連の一向一揆(一向宗)が治めた領地であった。当時、比叡山、京都五山、本願寺に代表される寺社勢力は中国と盛んに交易し大量の銭貨を得、経済的に幕府を支える存在であり対立していた。中でも京都五山や比叡山とは異なり、本願寺勢力は基本的に荘園を持たず、信徒からの喜捨により資金を集めていた。領地からの不安定な年貢や関所の通行税に寄らず、人の集積や経済活動に伴う需要や生産性増加に合わせて、中国から得た銭貨を用いたマネタリーベース増加が適切に可能であったことから経済的に栄えて自然と寄付金が増加した。蓮如たちは小高い丘の上に寺院を建設しその下を門前町とする都市計画(寺と町をセットとしたという意味での寺内町)を持っており、尾崎御坊など北陸の寺社・城跡でも同様の地形で寺内町の名残が残る。また、中世は幕府の内紛により権威が弱く地侍や盗賊がやりたい放題で、戦乱による財政難から度重なる徳政令で金融も麻痺していた。一方、本願寺の寺内町だけは、大量の資金、人材に恵まれ、規制緩和で酒や魚などの自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、徳政令からも免れ、経済的に繁栄していた。従って、安心した暮らしを求めて帰依する者が多かったと考えられる。そして北陸は石山本願寺の財政基盤として重要な地域として機能していた。その中で、守護大名富樫氏一族の内紛に、地元武士、浄土真宗本願寺派と髙田派の内部抗争が入り混じった紛争が起こる。これに勝利した富樫正親と本願寺派勢力が内部対立を起こし、本願寺が勝利したことで、戦国大名化した寺社勢力の自治が行われていた。
延元4年(1339年)に金沢城址の場所に、本源寺(現西別院)が開創され、中世に寺社勢力が統治する直前には、棟梁、松田次郎左衛門が田井城(金沢の旧奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地。松山寺周辺は二の丸、成瀬内蔵助宅周辺は三の丸、八坂は馬場)を居城としていた。松田次郎左衛門の先祖は京の北面武士で、観應のころ(1350〜1352年)に移り住んでいた。明応3年(1494年)、州崎慶覚坊(近江の土豪出身、一揆にて富樫政親を滅ぼす)に謀殺され、越中荒木村(現南砺市荒木)に逃れ、元亀8年(1508年)ごろには現南砺市城端に移り子孫は城端城に居住していくも、江戸時代には前田家から家禄千石を賜り城下町(金沢別院近く)に屋敷を拝領し廃藩まで居住することになる。

天文15年(1546年)、本源寺を尾山御坊(金沢御坊)と定めて、戦国時代の一向一揆の本願寺の拠点とした(本源寺はのちに前田利家・利常による寄進地で再建)。この寺内町(後町、南町、西町、後坊町)が現在の金沢市の原型と言える。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。その際に西町、南町の外に堤町、松原町、近江町、安江町、金屋町、材木町が形成され、『尾山八町』として城下町金沢の基礎となる。
賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。一罰百戒が当たり前の封建時代で着実な占領政策を行い、徹底的に残酷な弾圧による恐怖統制を強いた。遺恨の痕跡や資料が旧加賀藩各地に残るとはいえ、顕著な加賀藩プロパガンダに成功し、さらには寺社勢力を懐柔できたことが加賀藩にとっては大きい。つまり、前田利家や加賀藩は一向宗勢力を中心とした寺社勢力の懐柔政策を以って利用し藩領の自治を行って行く。藩政初期寺社寺領の寄進は金沢市内中心でありほとんどが非一向宗寺院であった一方で、一向宗寺院に対して特例的に諸役免除などを行ったり、有力寺院(現南砺市の瑞泉寺や善徳寺など)に前田家の子女を縁女として送ったりなど懐柔策を徹底し、触頭として機能させ強固な統治を行った(特に南砺市の有力寺院への縁女は江戸時代を通じて送られた。そもそも農地開拓や行政などは藩や武士の指導のもとで有力な農民や町民らの協力が必要であったため十村制の確立や地元の有力者と加賀八家や前田一門など武士らで縁組をして統治に利用した)。
利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した。城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。特に第3代藩主前田利常は宗徒の強い信仰心、つまり門主に対する絶対的信心や勤勉性を民政に利用することを考えた。金沢城の防備や、人別(現在の戸籍)を行うため、城下に散在していた寺社を3か所に移転・配置し、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となった。

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。また、利常の「百姓は死なぬ様に生きぬ様に」「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほ程出る」からその統治思想が垣間見える。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。
以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。

金沢城下は、1822年(文政5年)に藩主前田斉広が遠藤高璟に命じて測量を行い、1828年(文政11年)までに詳細な地図である「金沢十九枚御絵図」を完成させており、市内の状況把握が可能となっている。
「今津甚四郎書出候人数一巻」 によると、享保6年(1721年)の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „金沢市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 名古屋太郎, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons