吹田市: 歴史
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦。
ステゴドンの下顎骨の化石が市内2箇所で発見されている。
後期旧石器時代:市域にある遺跡から石器が発見されており、この頃から人が住んでいたことが分かる。
縄文時代:吉志部遺跡で石の鍬などが発見されている。
弥生時代:弥生土器が、垂水遺跡・五反島遺跡など、市内数箇所で発見されている。
古墳時代初期:垂水西原古墳が築かれた。
古墳時代後期:吉志部古墳、出口古墳、新芦屋古墳が築かれる。またこの頃、当地域(現・吹田市域)では須恵器がたくさん焼かれていた。
古代
5世紀前後の頃、河内国次田邑の豪族「次田連(スキタムラジ)・『新選姓氏録』には吹田連」一族が淀川を渡り、次田邑(吹田村)を興した。(高浜神社の歴史参照)
雄略天皇21年(499年頃)天照大神の神勅により豊受大神を丹波国から伊勢に遷宮する途中、山田の大神木(現在の尺谷17丁目辺り。尺谷(シャクタニ)は“仮宮の谷”が“借宮の谷”に誤記されたものが省略された呼称)に仮宮を建て1年余り鎮座した。(元伊勢伝承の一つ)
安閑天皇元年(534年、古墳時代後期):三島の県主が天皇に当地域(現・吹田市域相当)内の40町を献上したと『日本書紀』に記載されている。
奈良時代:「次田堀川」(すきたのほりかわ)の記述が行基年譜に見受けられる。行基が吹田に堀川や垂水布施所を築いた。
天平7年(736年):行基が常光円満寺(吹田市元町)を開いたと伝えられる。その他、行基開祖と伝えられる寺院がいくつかある。
天平16年(744年):当地域で 難波宮(難波京)の瓦を焼いていた。七尾瓦窯跡。
延暦4年(785年):和気清麻呂により、神崎川と淀川を直結させる工事が行われ、西国から船で大阪湾、神崎川をとおり京都へ向かう河港として発達した。もともと、西国街道・亀岡街道なども通っており、陸路・水路とも西国と京都を結ぶ交通の要衝として発達した。
延暦13年(794年):当地域で平安京創建時の屋根を葺いた緑釉瓦を焼いていた。吉志部瓦窯跡。
弘仁3年(812年、平安時代初期):東寺の荘園垂水荘が開かれる。
貞観7年(865年、平安時代前期):「清住寺領吹田庄」成立との記述が歴史書に見受けられる。この後にも興福寺領吹田東荘、西園寺家領吹田西荘といった荘園が開かれ、貴族の遊行の地ともなる。
貞観11年(869年):泉殿宮(吹田市西之庄町)が創建される。
中世
寛喜2年(1230年、鎌倉時代):太政大臣の西園寺公経が有馬湯(ありまのゆ。有馬温泉)の湯水を吹田にあった別荘「吹田殿」に運ばせ、入浴して楽しんだという記録が、『明月記』(藤原定家)に残る。藤原定家自身も建暦2年(1212年)に「吹田小屋」で遊んだという記録がある。
建武3年・延元元年(1336年、鎌倉時代末期):「水田城」の記述が歴史書に見受けられる。水田城がどこにあったかは不明。
室町時代:常光円満寺が足利将軍家の菩提寺となり、手厚い保護のもと隆盛する。広大な境内に僧兵もいたと伝えられている。
近世
元亀2年(1571年、室町時代末期):水田城にいた吹田氏が和田氏(高槻城主)に敗れる。
応仁の乱以降の戦国時代の戦火で、当地域の主な神社仏閣が焼失し、町屋にも大きな被害が出たとの記述が歴史書に見受けられる。
慶長15年(1610年、江戸時代初期):応仁の乱の戦火によって焼失していた吉志部(きしべ)神社が、朝鮮半島からの渡来してきた吉志一族の子孫によって再建される。
宝永3年(1706年):摂津国島下郡(しましもこおり)吹田村の一部が江戸幕府直轄地の天領(旗本領)から「仙洞御料」(上皇の領地)になる。この仙洞御料時代の壮大な庄屋が明治時代に改修され、西尾邸(在・吹田市内本町)として残っている。これ以降、吹田村は竹中氏および柘植氏の旗本領と仙洞御料に分かれるが、複雑に入り組んだ領地であった。そのため、領主ごとに庄屋を置き、相互の調整のために三方会所が設置された。さらに吉志部村領内に一村規模の出作地を持ち、出作方を含めて「吹田四方」とも言われる。吹田市域にあった他の村も吹田村と同じく、天領・高槻藩・淀藩・旗本領などが複雑に入り組んだ「入組支配」が行われた。
寛政10年(1798年):『摂津名所図会』に「吹田の渡し」が描かれる。
太平洋戦争以前
1876年(明治9年):大阪-京都間に鉄道が開通。吹田駅開業。
1878年(明治11年):神崎川が付け替えられ、現在の流れの位置になった。
1880年(明治13年):釈迦ヶ池に鴨猟に来ていたドイツ皇帝フリードリヒ3世の息子のハインリヒを住民が殴打し、外交問題となった。
1889年(明治22年)4月1日:町村制の施行により島下郡吹田村が発足。
1891年(明治24年):大阪麦酒(アサヒビールの前身企業)の創業(吹田工場の竣工)。
1896年(明治29年)4月1日:吹田村の所属郡が三島郡に変更。
1908年(明治41年)4月1日:吹田村が町制施行して三島郡吹田町となる。町役場は旗本であった竹中氏の陣屋(城郭)建物が利用された。
1921年(大正10年)4月1日:北大阪電気鉄道の十三-淡路-豊津間が開通。東吹田駅/西吹田駅(現在の阪急吹田駅)、豊津駅開業。
1922年(大正11年):吹田市山手町に関西大学の千里山学舎(現・千里山キャンパス)が完成。関西大学が大阪市内から移転する。
1923年(大正12年):吹田操車場が操業を開始。「ビールと操車場の町」と呼ばれる。
1924年(大正13年):国鉄吹田駅、東へ200m移転して現在地に。
1928年(昭和3年)1月16日:新京阪鉄道(現在の阪急京都線) 淡路-高槻町(現・高槻市駅)間が開通。吹田町駅(現・相川駅)、正雀駅開業。
1934年(昭和9年):生活貧窮者の保護、医療施設「弘済会(現・大阪市立弘済院)」が山田事業所を三島郡山田村(現吹田市古江台)に建設する。
1934年(昭和9年):室戸台風によって豊津小学校と岸部小学校の校舎が倒壊。生徒多数が犠牲になる。
1936年(昭和11年):府道 大阪高槻京都線が開通。産業道路と呼ばれる。神崎川の水運、鉄道輸送に加え道路ができたことで、これ以降、JR京都線(吹田操車場)、神崎川、産業道路沿いに工場が建ち始める。
1940年(昭和15年)4月1日:大阪府下で7番目に市制を施行して吹田市が発足。当時は、面積20.45km2、人口63,181人であった。当初の市役所は吹田町役場(竹中氏陣屋建物)がそのまま利用された。
太平洋戦争以降
1952年(昭和27年):朝鮮戦争に反対する人たちが吹田事件を起こす。
1956年(昭和31年):住宅公団の千里山団地が建設。吹田がベッドタウンとなるはしり。
1960年代:千里ニュータウンの開発。
1962年(昭和37年):千里ニュータウンの入居開始。
1963年(昭和38年):京阪神急行電鉄(現・阪急)の千里山駅-新千里山(現・南千里駅)間が開通。大阪学院大学が開学。
1965年(昭和40年):大阪中央環状線の開通。
1967年(昭和42年)3月1日:阪急千里線が北千里駅まで延伸。北千里駅に日本初の自動改札機が設置される。
1969年(昭和44年):地下鉄堺筋線(当時は大阪市営地下鉄、現在のOsaka Metro)と阪急千里線、京都線との相互乗り入れ開始。 …