Heimatgeschichte · Toyohashi ·

豊橋市: 歴史

豊橋市: 歴史

=== 先史 ===

1957年と1959年に市内牛川町で約十万年前の化石骨が発見され、東京大学教授・鈴木尚はこれを人骨であると鑑定した
。
市では牛川原人(牛川人)として豊橋市美術博物館で展示し、各種資料で国内最古の人骨と紹介している。また、発掘現場の牛川町には「牛川原人之碑」が建てられている
。

しかし、2001年にお茶の水女子大学の松浦秀治教授がフッ素年代測定法で調査したところ、ナウマンゾウのすねの骨という結果が出た。同年、国立科学博物館人類研究部長も「ヒトの骨と判定できる特徴を備えていない」と一蹴していた

ことから、人骨である可能性は低いとされていた。
そして、2024年12月1日に諏訪元らによって公開された論文ではクマの骨格片であると結論づけられ人骨ではないことが確定した
。
市文化財センターは「豊橋の大切な宝であることに変わりはない」としている
。

縄文時代
縄文時代の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件がある。

弥生時代
弥生時代の遺跡として瓜郷遺跡や高井遺跡などがある。高井遺跡は弥生時代中期・後期、古墳時代の建物が発見されている。

古墳時代
市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。

飛鳥時代
律令制(国郡制)の下で、三河国の渥美郡、宝飯郡、八名郡に属したとされる。
律令制の下で班田制が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。

奈良時代
また、初期の東海道が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の豊川)河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『枕草子』の「渡は」の段などでも言及されており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。

室町時代
交通の要衝のこの地に目を付けた戸田全久(宗光)が二連木城(豊橋市仁連木町)を築城(1493年)、その後、西方の至近距離に、牛窪城(豊川市牛久保町)の牧野古白(成時)が今橋城(豊橋市今橋町)を築城した(1505年)。

戦国時代
1505年当時、東三河に今川氏の影響力が及んでおり、北条早雲を総大将とする今川氏親軍が三河国に侵攻し、今橋合戦で今橋城の牧野古石を討つなどしたが、松平長親との井田野合戦(岡崎市井田町)で敗北している。
その後、三河牧野氏と、二連木城等を有する戸田氏の間で抗争が起きたが、やがて、西三河をまとめた岡崎城の松平清康が東三河に侵攻、吉田城に篭る牧野信成、宇利城に篭る熊谷氏が防戦したが、戸田氏他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。
しかしながら、森山崩れによって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は彼らの属領争奪の場と化す。
領国の蚕食を受けた松平氏は衰退し、今川氏の傘下となる。松平氏が撤退した後の吉田城は、城番の牧野成敏が城主となったが、その後これを略取した戸田宣成が、牧野氏の要請を受けた今川氏により討たれ、今川氏の直接支配となった。

安土桃山時代
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し、今川氏真を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。家康は、重臣の酒井忠次を吉田城に入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ再統一された。
安土桃山時代、1590年(天正18年)に、関東移封で徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が東三河4郡を統べる吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。

関ヶ原の戦いの後、江戸時代に入ると、吉田藩が設置され、3万石から8万石程度の譜代大名が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町(吉田宿)として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も二川宿として栄えた。海道の脇街道として姫街道の八名郡嵩山(すせ)に嵩山宿が置かれた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。
1752年には、藩主松平信復により吉田城内に藩校時習館が置かれた。
幕末の慶応3年7月27日(1867年8月)、牟呂村(現豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったといわれる。
江戸時代、最後の藩主は、大河内長沢松平家の大河内信古である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。

1869年(明治2年)  版籍奉還直後、吉田から豊橋に改名。版籍奉還直後の明治2年6月(1869年)、吉田は伊予吉田藩との混同を避けるため、明治政府の命により、豊川に架けられていた橋からとって、豊橋と改名された。
1871年(明治4年)
吉田城趾に名古屋鎮台が置かれた
7月、廃藩置県により豊橋県となる。
11月、額田県
1872年(明治5年)- 愛知県に統合された。大区小区制が施行され、豊橋は第十五大区として管理され、愛知県の豊橋支庁が置かれた。
1878年(明治11年)- 郡区町村編制法施行により郡や町村が置かれ渥美郡豊橋町となる。
1885年(明治18年)- 陸軍歩兵第18連隊が置かれた。
1888年(明治21年)- 東海道本線が開通し豊橋駅が開業。
1889年(明治22年)- 郡制及び町村制を施行。
1895年(明治28年)- 渥美郡豊橋町は渥美郡豊橋村を合併する。
1899年(明治32年)- 動物園開園。
1906年(明治39年)-
豊岡村と花田村を合併。
8月1日 - 市制施行。
1908年(明治41年)から1925年(大正14年)までは高師原に陸軍第15師団が置かれるなど、豊橋は軍都として繁栄した。こうした影響から市内の歓楽街も盛況を見せる一方、1915年(大正4年)の人口1万人に対する花柳病の患者数は約400人と名古屋市の5倍となった。

1918年(大正7年) - 市内に米騒動(1918年米騒動)が及ぶ。同年8月13日には、約2000人の群衆が米穀商を襲撃して店主に危害を加え、放火する事案も発生。
1924年(大正13年)- 渥美線の高師 - 豊島間が開業。
1925年(大正14年)
三河田原まで開業。
市電(豊橋鉄道東田本線)開業。
1929年(昭和4年)5月28日 - 陸軍第3大隊第3中隊の敷地内で、煙幕を製造中に火薬が爆発する事故。4人死亡、重軽傷4人。
また明治から昭和の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。
太平洋戦争の最中には、1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震と、1945年(昭和20年)6月20日のB29、136機による空襲(豊橋空襲)によって、市街地の7割が焼失した。

1931年(昭和6年)
豊橋初の百貨店として豊橋丸物(広小路通。1950年(昭和25年)に駅前大通に移転、1973年(昭和48年)に西武百貨店との提携で豊橋西武となる)竣工。
豊橋市公会堂(八町通)が竣工した。
1932年(昭和7年)- 宝飯郡下地町、渥美郡高師村、牟呂吉田村、八名郡下川村、石巻村多米を編入。
1944年(昭和19年)- 東南海地震発生。
1945年(昭和20年)- 豊橋空襲。

終戦後には将来の発展を見越して市街地の大規模な土地区画整理と戦災復興都市計画が実施されている。また、食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。
一方で、日本紡績(現・ユニチカ)を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。
農工業の発展で新たな水源が求められていた中、1968年(昭和43年)には豊川用水が完成し農業・工業の発展に寄与した。
1970年代から30年間にもわたって、全国の都市の中で農業粗生産額第1位を続けた。1959年(昭和34年)に完成した豊橋港(現在は三河港の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „豊橋市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Lombroso, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons