郡山市: 歴史
=== 古代 ===
古代では7世紀の安積郡設置以来、安達・田村両郡が10世紀に分郡されるまで、現在の二本松市・田村市を含む広大な地域の中心地として機能していたとみられ、中心市街地直下に位置する清水台・咲田・虎丸遺跡が関係する遺跡として考えられている。また、8世紀に石背国が設置された際には方八町に国府が置かれたという説がある。
ちなみに当時の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所のことを郡衙と言うが、「郡山」という現在の地名は、この郡衙が当地に置かれていたことに由来する。
11世紀になると、東部を中心として藤原氏や熊野の荘園が設置され、樹枝状の低地にも開発が進んだ。鎌倉時代には伊東氏の宰領する土地であったことが文献から推測されており、鎌倉時代末期には東部地域が南北朝の争乱地帯であった。
室町時代を迎えると、安積町に篠川御所が設けられたことで、南東北の政治的中心地として文献に当該地域の地名が頻出するようになる。しかし、郡山市域の伊東氏は早くから分家が分立した状態にあり、中世を通じて主体的な権力を保持する戦国大名に成長するには至らなかった。そのため、当地の政治状況は中期以降は検段職を有する白河結城氏に属し、末期になると蘆名氏や伊達氏の影響下にあった。その一方、経済的には、安積町の4号国道に沿った地域で実施された大規模な発掘調査によって、この地域が流通の拠点として機能していたことが判明している。調査では古代の街道と中世の街道が検出された他、多数の建物跡や堀・溝が発見され、出土遺物から12 - 16世紀に亘る年代観が与えられている。
豊臣政権下の上杉氏を経て江戸時代になると、二本松城に織田系大名であった丹羽氏が入封し、郡山は城下以外では本宮と並ぶ数少ない町であった。
江戸時代末期に奥州街道の宿場町(郡山宿)となり、人々が集い始めた郡山であったが、当時の人口はおよそ5,000人に過ぎず、周辺は農家のための秣場や荒れた原野が広がる、「安積三万石」の地であった。
しかし、この原野が開墾に向いていると明治政府が注目し、1877年(明治10年)ごろから、明治政府の国費による開発事業の第一号として郡山が選ばれた。これが世に言う「安積開拓」である。
明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと決まった国営安積開拓事業は、もともと水利が悪かったこの地に、山を越えて猪苗代湖から疏水を開削して原野を開発し、封建制度の廃止により職を失った失業士族を入植させようというものであった。安積疏水の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、9藩から約500戸、約2,000人の入植者がやってきた。第一陣として旧久留米藩の士族が入植し、これを機に岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集まった。実に延べ85万人の人々が携わり、3年の月日を費やした大事業であった。
明治政府が郡山開拓にここまで力を注いだ背景には、戊辰戦争で明治政府に敵対した会津藩の本拠地である会津若松を危険視していたため、会津若松を監視して衰退させるために近隣に会津若松より大きな都市を作って、旧会津藩と関係の無い西日本各地から多くの旧武士を移住させたと言われる。そのため、東北本線の前身である日本鉄道が建設された際も、会津若松を無視して郡山を経由するルートで建設された。
農業水利として行われた安積疏水と安積開拓により郡山は肥沃な大地に生まれ変わった。もっとも地域経済に大きな効果を招来したのは疏水に伴う水力発電事業の方が大きかった。郡山市街地まで国内初の長距離送電を行った水力発電所「沼上水力発電所」として利用され、電力を自給すると共に余剰電力を安く供給して多くの工場を誘致。郡山には信州を始めとする各地の資本により紡績工場が多数進出し、鉄道網の拡充とともに近代化が加速された。
やがて製糸業、窯業、機械工業、化学工業などの製造業も盛んとなり人口も増え続け、1924年(大正13年)9月、市制を施行し「郡山市」が誕生。昭和期に入り太平洋戦争が始まると、市内の産業は軍需関連が中心となり、1944年(昭和19年)には軍都の指定を受ける。国による軍都整備事業や軍需産業により郡山はさらなる発展を遂げるが、1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍のB-29爆撃機による大規模な空襲を受けた。その後、終戦までに3回もの爆撃があり、郡山駅周辺市街地及び工場地帯は壊滅的な打撃を受け、多くの犠牲者を出した。
終戦後の1946年(昭和21年)、戦災復興都市の指定を受け商工業都市としての復興が始まり、1964年(昭和39年)、新産業都市の指定、1986年(昭和61年)、郡山地域テクノポリスの指定を経て、1997年(平成9年)4月には東北初の中核市へ移行した。
明治時代の安積開拓に始まり、高度経済成長期にかけて商工業都市として急速に発達する一方で、人口が急増し、さまざまな人々が集まったことから暴力団抗争が相次いで起こり、治安の悪い街「東北のシカゴ」として名前が広がってしまった。
そのような中、全国で「素人のど自慢大会」などが人気を集め、郡山でも町内会の演芸会などで音楽活動が盛んになり、いつしか音楽が市民の心の拠り所となっていった。やがて本格的なオーケストラの演奏会開催を望む市民の機運が高まり、1954年(昭和29年)、郡山音楽協会と郡山青年文化協会主催の「NHK交響楽団公演」が国鉄郡山工場の大食堂を会場として開催された。その後も合唱、器楽、学校音楽での活動や演奏会、当時日本最大のロックフェスティバルと言われた1974年(昭和49年)のワンステップフェスティバルなどの開催により、「東北のシカゴから東北のウィーンへ」としてイメージ改善を進め、2008年(平成20年)に「音楽都市宣言」を行い、「楽都郡山」をキャッチフレーズに音楽活動が盛んな街として情報発信を行っている。
県の地理的な中間部に位置に県庁がないことに不便だと訴えている市民により県庁を郡山に移転しようという動きがある。1882年(明治15年)、郡山の生糸貿易商で安積開拓にも貢献した阿部茂兵衛を中心としたグループが郡山への県庁移転運動を開始し、福島の県庁まで行くのに不便だった浜通りや会津の人々の支持も得た。明治18年の県議会において賛成37、反対16の大差で郡山移転決議がいったんは可決され、当時の県令である三島通庸から上申書が内務省へ提出された。しかし信夫郡・伊達郡・相馬郡など県北部の移転反対派が伊藤博文や西郷従道らに陳情を行い金品を贈るなどの攻勢を行ったこと、移転運動の中心だった阿部茂兵衛が同年(明治18年)に死亡して運動が勢いを失ったことなどから、内務省は結局県議会の決議を無視することになった。福島県の北端である福島市に県庁及び国立大学、県立図書館、県立美術館、県立医大、附属病院などの公共施設が集中することから、東日本大震災を経て現在でも会津地方及び県南・県中地方の自治体などから請願書が県へ提出されている。 …