盛岡市: 歴史
平安時代の延暦年間、征夷大将軍・坂上田村麻呂により志波城が築かれた。続いて豪族安倍氏により「厨川柵・嫗戸柵」が置かれて事実上の自治を果たすが、安倍氏が源氏からの侵攻を受けると、代わって出羽国から清原氏が進出した(前九年の役)。清原氏が内紛で滅亡すると(後三年の役)、現在の盛岡市(当時の岩手郡・斯波郡)は平泉を拠点とする藤原清衡ら(奥州藤原氏)の勢力圏となる。平泉が源頼朝に攻略され再び源氏が統治すると(鎌倉幕府の成立)、「厨川城」を拠点に御家人「奥州工藤氏」が治め、のちに岩手郡は北条氏・斯波郡は足利氏の影響下に置かれる。南北朝時代には両統が割拠する中、甲斐源氏を祖とする南部氏が三戸からの南進を果たす。工藤氏らを配下として岩手郡を領有、南部氏家臣福士氏が「不来方城(慶善館・淡路館)」を置く。南部氏は斯波氏を滅ぼし「斯波郡(紫波郡)」を領有すると不来方城を礎に盛岡城を築き、城下町を整備。これが盛岡の現代に至る始まりである。盛岡藩(旧南部藩)は盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となる。紫波・岩手両郡の中核となり、古代以来の統治拠点「志波城」「厨川城」「盛岡城」を包含する地域として、現在の盛岡市が形成される。
2023年、ニューヨーク・タイムズの『2023年に行くべき52カ所』に選ばれた。
「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に13000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。
岩手県指定史跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴建物跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における爪形文土器他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「翡翠」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、もっぱら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、縄文土器が発掘されている一方、弥生土器の発掘例はほとんどない。また古墳文化と続縄文文化の境界上にあって、両文化の交わる点にあった。
南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にもあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。ヤマト王権の東北地方における勢力拠点となった仙台平野に比して、北上盆地にはその影響が弱く、盛岡周辺では地元小豪族が半ば独立した自治を行っていたと見られる。市内では開墾などによって「古墳」が失われているが、石室・土師器・須恵器や鉄製馬具が出土しており、有力な支配者層は、陵墓をもってその権威を示したと見られる。「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。
平安時代の盛岡は、当時の律令支配から独立した土豪勢力がおり、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族蔑視されていた。「上田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」や、全国でも岩手県での出土が最も多い「蕨手刀」からは、古くから一帯に高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測され、また錫製品・琥珀の出土により、当時から交易ルートが存在したと見られている。また「太田蝦夷森古墳群」からは「勾玉」「ガラス玉」ほか、ヤマト政権との関わりを示す「和同開珎」などが出土しており、志波城造営との関わりを示唆している。
平安京造営と並ぶ桓武天皇の陸奥進攻政策により、延暦21年(802年)、アテルイが都へ連行されると、翌年の延暦22年(803年)、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂が「志波城」(現在の「志波城古代公園」、盛岡市中太田方八丁附近)を造営した。これは陸奥国最北の城柵であったが、河川の氾濫により10年で徳丹城へ移転した。一帯は律令体制下に置かれ、上総(千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。のちに朝廷の財政難による拡大政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。
安倍頼時・安倍貞任父子は、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源頼義の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、頼義の説得で出羽の俘囚長出羽清原氏が頼義に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、このころ不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。源頼義の子で前九年の役にも従軍した源義家が陸奥守として赴任して来て、清原武貞の死後の清原氏跡目相続の内紛に介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定される。現在の盛岡市域は、清原氏を名乗るも実父藤原氏の血統にあり、安倍氏出身の実母を持つ清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなり実父の姓藤原に復す。平泉の奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。
奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権の確立を目指す源頼朝および鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破った。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。
源頼義から数えて5代目の後裔となる源頼朝は、文治5年(1189年)9月11日、厨川に到着し「厨川館」を定める。前九年の役における父祖の故事にならい、頼義が厨川で安倍氏に行なったのと同様、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。この戦いを奥州合戦と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭の工藤氏が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光(奥州工藤氏)は前九年合戦の古戦場跡に「厨川館」を定め、安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現・曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。のち、岩手郡一帯は「北条得宗家」の、斯波郡は「足利宗家」の大きな影響の下に置かれた。
このころは「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器や常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測され、大荘厳寺も高水寺同様、後に南部氏の宗教政策によって盛岡へ移転した。後の盛岡藩主となる南部氏の伝承によると、始祖南部光行公は、1180年、石橋山の戦いの功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たした。 …