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下関市: 歴史

下関市: 歴史

古くより九州や中国・朝鮮半島といったアジア大陸からの本州の玄関口として栄え、江戸時代には「西の浪華」と呼ばれるほどの賑わいだった。また日本史における数々の重要な出来事に関係している都市でもある。
「下関」の名称の初見は869年(貞観11年) であるのに対し、「赤間関」の名称の初見は1185年(元暦2年)である。ただし、これを関所の名称 と捉え、「あかま(赤間・赤馬)」が地名であると解すると平安時代まで遡ることができる。いずれにしても鎌倉時代に「赤間関」という呼び名が成立し、付属する港湾や関門海峡の長門国側を指す広域地名、更には対岸の豊前国門司関を含めた関門海峡全体の別名としても用いられた。
元寇をきっかけに赤間関を防衛するために長門守護は長門探題とされて北条氏一門が任ぜられた。北条氏が滅びると長門の御家人であった厚東氏が長門守護とされるが、南北朝の内乱の中で周防国の在庁官人・御家人であった大内氏が南朝方として周防・長門両国を征服、後に北朝方に離反して室町幕府から両国の守護、更に対岸の豊前国の守護にも任ぜられて赤間関を含めた関門海峡両岸を大内氏が支配する体制が16世紀中期まで200年近く続くことになる。大内氏は赤間関に代官を設置して直接管理し、港湾の管理・関銭や帆別銭の徴収・明や朝鮮などの外交使節への応対などにあたった。
特に外国からの船舶が東へと向かうためには必ず赤間関に立ち寄って瀬戸内海を経由して京都方面に向かうことになり、朝鮮通信使(朝鮮の使節)が博多に寄らずに直接赤間関を目指した例もある。また、室町幕府が派遣した遣明船の往復の際にも必ず赤間関に立ち寄り、帰国時には赤間関から京都へ使者が送られていた。遣明船の記録でも、往路は寧波到着時に日本の年号から明の年号に改め、帰路は赤間関到着時に日本の年号に戻す慣例 があった。また、16世紀に大内氏が日明貿易を独占すると遣明船から抽分銭を徴収する抽分司官が赤間関に置かれた他、明の朝廷に献上する貢物や輸出品を保管する倉庫も設置され、朝鮮などの外国人も居住していた。

弥生時代には既に現在の下関市域には集落が複数存在しており、綾羅木郷遺跡(川中地区)、土井ヶ浜遺跡(現在の豊北地区)などに当時の遺構が現在も残る。

200年ころ - 日本書紀によれば、このころ仲哀天皇が現在の下関市長府に穴門豊浦宮を設置したとされる。
7世紀 - 長門国国府を現在の長府に設置。
991年(正暦2年) - 大宰府赴任途中の藤原佐理が長門赤馬泊(赤間関の古称)にて「離洛帖」(国宝)を記す。
1185年(元暦2年・寿永4年) - 壇ノ浦の戦いで平家滅亡、安徳天皇入水、源平合戦終結。
1276年(建治2年) - 鎌倉幕府が長門探題を設置。
1557年(弘治3年) - 大内義長が長府の長福寺(功山寺)にて自害、大内氏滅亡。

1600年(慶長5年) - 毛利秀元(長州藩主毛利輝元の養子)が長府に館を構え、長州藩の支藩として長府藩が成立。
1607年(慶長12年) - 朝鮮通信使来関。以後、当地が朝鮮通信使の寄港地の一つとなる。
1612年(慶長17年) - 巌流島にて宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われる。
1653年(承応2年) - 清末藩(長州藩の孫藩)が成立。(現在の清末地区)
1672年(寛文12年) - 西廻り航路の北前船が就航
1840年(天保11年) - 長州藩が港に越荷方を設置。
1863年(文久3年) - 関門海峡航行中のアメリカ商船を砲撃する事件(いわゆる下関事件)が発生。豊浦郡田耕村(現在の豊北地区)にて中山忠光が暗殺される。
1865年(元治元年) - 下関戦争(馬関戦争)が長州藩と連合国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)との間で勃発。高杉晋作による奇兵隊の功山寺挙兵(元治の内乱)。

1889年(明治22年) - 市制施行し、赤間関市(あかまがせきし)発足。
1891年(明治24年) - 戦場ヶ原、椋野砲台完成。
1893年(明治26年) - 大阪に次ぐ全国で2番目の日銀支店として下関に日本銀行西部支店開設(初代支店長は高橋是清)。
1895年(明治28年) - 春帆楼にて下関条約(日清講和条約)締結。下関要塞司令部設置。
1896年(明治29年) - 唐戸湾埋立完成。唐戸町誕生。
1898年(明治31年) - 山陽鉄道子会社により門司港との間に定期航路(関門連絡船)が就航。
1900年(明治33年) - 赤間関郵便局が東南部町に新築移転(現在の下関南部町郵便局であり、現存する最古の郵便局庁舎)。
1901年(明治34年) - 馬関駅(現下関駅)が細江町に開業し、山陽鉄道の終点となる。西細江、豊前田、竹崎町の海岸埋立。
1902年(明治35年) - 下関市に改称。明治天皇行幸。山陽ホテル営業開始。
1905年(明治38年) - 関釜連絡船が就航。
1906年(明治39年) - 上水道給水開始(全国で9番目)。内日水源地完成。山陽鉄道および関釜連絡船の国有化。英国領事館開設。
1909年(明治42年) - 市章制定。
1911年(明治44年) - 内務省下関土木出張所が設置される(山口県・広島県・島根県の一部と九州・沖縄を担当)。ガス供給開始。日本初の貨車輸送船就航。
1912年(明治45年/大正元年) - 新橋駅〜下関駅間で日本最初の特別急行列車運転開始。
1913年(大正2年) - 市内で初めて東駅−唐戸間にバスが走る。
1914年(大正3年) - 長州鉄道北浦線の東下関〜小串間開通(現在の山陰本線)。三菱合資会社彦島造船所(三菱重工業下関造船所の前身)が江の浦に開所。
1915年(大正4年) - 秋田商会ビル建築。
1918年(大正7年) - 長門鉄道小月−西市間開通。
1920年(大正9年) - 下関市立下関中学校(現在の山口県立下関西高等学校の前身)創設。
1921年(大正10年) - 生野村(山の田から東駅に至る領域)を編入合併。
1922年(大正11年) - 山陽ホテル焼失。
1924年(大正13年) - 山陽ホテル再建。山陽電気軌道設立。
1926年(大正15年) - 山陽電気軌道壇ノ浦〜松原間開通(以後路線拡張し、1971年まで営業)。摂政宮(当時の皇太子で後の昭和天皇)行啓。
1927年(昭和2年) - 日和山公園完成。
1929年(昭和4年) - 功山寺仏殿および住吉神社本殿が国宝に指定。
1930年(昭和5年) - 唐戸桟橋設置。下関警察署が東南部町から西細江町に移転。
1931年(昭和6年) - 長府海面埋立。市内でラジオ放送開始。
1932年(昭和7年) - 下関市歌を制定(新設合併後も継続使用)。山陽百貨店営業開始。長府楽園地開設。
1933年(昭和8年) - 山陰線全線開通。唐戸魚菜市場(唐戸市場の前身)完成。彦島町合併。
1935年(昭和10年) - 関門トンネル起工式。
1937年(昭和12年) - 長府町、川中村、安岡村合併。日清講和記念館落成。
1938年(昭和13年) - 市政50周年。神戸製鋼所開設のため長府楽園閉鎖。
1939年(昭和14年) - 小月、王司、清末、吉見、勝山合併。
1940年(昭和15年) - 鉄道省が「東京・下関間新幹線建設基準(弾丸列車)」(現在の新幹線)を制定。下関飛行場(小月航空基地の前身)完成。
1942年(昭和17年) - 世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通。下関駅が現在地(竹崎町)に移転。
1943年(昭和18年) - 大政翼賛会下関支部発足。
1944年(昭和19年) - 山口銀行開店。下関・北九州初の空襲。
1945年(昭和20年) - B-29による関門海峡への機雷敷設および下関大空襲。対馬海峡の封鎖により関釜連絡船が休止に。6月29日と7月2日の二度にわたる市街地への大規模な空襲で市街地の大半を焼失、死者324人の犠牲を出した。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „下関市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: nanamori, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons