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函館市: 歴史

函館市: 歴史

函館には、縄文時代には7千年に渡り独自の文化が栄え、続縄文時代前期にはオホーツク海側の宇津内文化等とは異なる「恵山文化」が渡島半島から石狩低地帯(石狩平野と勇払平野を合わせた範囲)まで広がっていた。現在の函館市はその恵山文化のなかでも縄文系弥生文化に属する(大陸系弥生文化ではない)東北北部の弥生文化が広がっていた。たとえば続縄文時代の碧玉製管玉の出土はその例である。
箱館は天然の良港で、江戸時代から松前、江差とともに「松前三港」または「蝦夷三湊」と和人に呼ばれたところで、海産物交易の集積地として栄えてきた。寛政11年(1799年)、江戸幕府はロシア帝国の南下政策に対して蝦夷地を直轄領とし、箱館に奉行所が置かれることになった。
安政元年(1854年)、日米和親条約の締結により幕府は箱館と下田の開港を決定、安政6年(1859年)には長崎、横浜とともに日本国内初となる対外貿易港として開港した。当初は箱館でも出島方式の外国人居留地が計画されたが、失敗に終わって市中に混在することになり、それが異国情緒豊かな街並みとして残り、現在に至っている。明治時代になると箱館から「函館」へ改称して開拓使函館支庁が置かれ、函館県庁、北海道函館支庁と変遷していき、周辺には外国公館や公会堂が建ち並んでいった。
函館のまちはしばしば大火に見舞われているが、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火による復興のための市区改正事業により、幅員20間の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生した。1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階外観が洋風建築(木造)の和洋折衷建築が多く建てられ、函館の特徴的な景観になっている。さらに、大火でコンクリート建築物が増え、大型のうだつや外国のデザインを取入れた函館型三方式地上式消火栓が設けられ、日本最古のコンクリート製電柱などがある等、耐火の工夫が見られる。
1905年(明治38年)に調印されたポーツマス条約によって日本が北緯50度以南の樺太を獲得し、ロシア帝国が日本海、オホーツク海、ベーリング海の漁業権を許与すると、昭和の戦前期にかけて北洋漁業の基地として最盛期を迎えた。終戦直後から1952年(昭和27年)まで北洋漁業ができなかったが、その間にイカ釣り漁と水産物加工業が台頭した。
北洋漁業の将来に不安のあった函館市は「工業生産都市」への転換を計ろうとするが、オイルショックによって「工業都市化」や「経済開発」重視から市民の「生活環境」重視へと転換していった。特に、函館山の自然保護と歴史的環境を活用した観光政策に大きな力を注いでいった。また、函館の地域特性を活かすため、2003年(平成15年)に「函館国際水産・海洋都市構想」を策定、「マリン・フロンティア科学技術研究特区」として構造改革特別区域に認定されるなど、産学官の連携強化による新たな都市形成を目指している。

「函館市の概要」「函館市紹介」「函館市の歴史」参照

縄文時代:旧南茅部町あたりで縄文文化がおよそ7千年に渡って栄えた。この時代に作られた国宝「中空土偶」は尾札部町で出土している。
斉明天皇4年(658年):日本書紀の記述によれば、武人の阿倍比羅夫が「渡嶋蝦夷」(北海道の続縄文文化人)と共に「粛慎」(オホーツク文化人)を排除したという
大治元年(1126年):天台宗の僧・良忍の伝説がある。
保延年間(1135年 - 1141年):船魂神社創建。
永仁04年(1296年) : 日蓮宗の僧・日持が来訪する。日持の経石がある。
享徳03年(1454年):河野政通が宇須岸(ウスケシ)に館を築く。館が箱の形に似ていることに因んでこの地を「箱館」と呼んだとされている。
長禄元年(1457年):コシャマインの戦いでアイヌが箱館を攻略。
永正09年(1512年):ショヤコウジ兄弟の戦いにより箱館を攻略。その後、和人は亀田(現在の万代町付近)に移る。

慶長18年(1613年):松前藩が亀田に番所を置く(後に亀田奉行所となる)。
元禄13年(1700年)頃:亀田港が亀田川の土砂で埋まる。以後、箱館が栄え始める。
寛政05年(1793年):ロシアの使節アダム・ラクスマンが来航。漂流民大黒屋光太夫らを受け取る。
寛政08年(1796年):高田屋嘉兵衛が蝦夷地に来航。
寛政11年(1799年):高田屋嘉兵衛が択捉航路を開設。翌年に漁場を開く(北洋漁業の礎)。
寛政12年(1800年):伊能忠敬が箱館山(函館山)で測量を開始。
享和02年(1802年):江戸幕府、徳川家斉が蝦夷奉行所を設置(後に箱館奉行所と改称)。
文化04年(1807年):蝦夷地が幕府直轄となり、箱館奉行所を廃止して松前奉行所を設置。
文化08年(1811年):クナシリ島(国後島)で捕らえられたロシア船艦長ゴローニンが箱館に送られる(ゴローニン事件)。
文化10年(1813年):ロシア軍艦ディアナ号が来航、高田屋嘉兵衛の斡旋によりゴローニン釈放。
文政04年(1821年):幕府が蝦夷地を松前藩に返還(松前奉行所の廃止)。
安政元年(1854年):日米和親条約によって箱館港が補給港となる。マシュー・ペリー、エフィム・プチャーチンが調査のために来航。幕府は箱館周辺を直轄領とし、箱館奉行所を再び設置。
安政02年(1855年):日米和親条約に伴い箱館港が食料・水の供給港として開港。
安政05年(1858年):箱館奉行所の命により、美濃国岩村藩出身の陶工・足立岩次らが谷地頭にて箱館焼を始める。
安政06年(1859年):日米修好通商条約に伴い、箱館港が横浜港・長崎港とともに日本国内初の国際貿易港(交易港)として開港。外国人居留地を設置。
万延元年(1860年):箱館医学所創設(市立函館病院の前身)。
文久03年(1863年):弁天台場竣工。
元治元年(1864年):星形要塞の五稜郭竣工。
慶応4、明治元年(1868年):明治政府が箱館裁判所を設置。1か月後に箱館府と改称。榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館を占領し五稜郭を拠点にする(箱館戦争)。

明治02年(1869年):旧幕府軍が新政府軍に降伏。蝦夷地を北海道と改称。箱館府を廃止し開拓使出張所を設置。
明治03年(1870年):ガルトネル開墾条約事件が和解に至る。
明治04年(1871年):常磐町から出火。1023戸焼失(約1700戸とも)する大火となった。
明治05年(1872年):箱館郵便役所開設。気候測量所(現在の函館地方気象台)設立。
1875年(明治8年): 4月18日に蓬莱町から出火。224棟焼失。
1879年(明治12年):郡区町村編制法施行により「函館区」設置。明治12年大火発生(堀江町(現在の末広町)から出火、焼失戸数2,326戸)。
1882年(明治15年):開拓使を廃止し函館県を設置(三県一局時代)。
1886年(明治19年):三県を廃止し北海道庁が開庁。
1887年(明治20年):亀田川河口切替工事(新川)竣工。
1896年(明治29年):函館競馬場開設。
1897年(明治30年):函館馬車鉄道営業開始。
1899年(明治32年):亀田郡亀田村の一部を併せて北海道区制による函館区となる。函館山への入山・写真撮影・スケッチなどの規制。
1900年(明治33年):函館要塞司令部設置。
1902年(明治35年):亀田郡亀田村・神山村・鍛冶村・桔梗村・石川村を併せた亀田村(現在の亀田支所管内)、亀田郡上湯川村・下湯川村・亀尾村を併せた湯川村(現在の湯川支所管内)、亀田郡銭亀沢村・根崎村・志苔村・石崎村を併せた銭亀沢村(現在の銭亀沢支所管内)、亀田郡戸井村・小安村を併せた戸井村(現在の戸井支所管内)が二級町村制施行。北海道鉄道函館駅開業。
1904年(明治37年):函館 - 小樽間の鉄道開通。
1906年(明治39年):亀田郡尻岸内村(現在の恵山支所管内)、茅部郡臼尻村・熊泊村を併せた臼尻村(現在の南茅部支所管内)が二級町村制施行。
1907年(明治40年):明治40年函館大火発生(東川町から出火、焼失戸数12,390戸、死者8人)。
1908年(明治41年):青函連絡船運航開始。
1909年(明治42年):3月29日、熊泊硫黄製錬所(当時臼尻村)付近で土砂災害が発生して31人が死亡。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „函館市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Soica2001 (talk), Public domain – Wikimedia Commons