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調布市: 歴史

調布市: 歴史

=== 古代 ===
旧石器時代
市域には旧石器時代から人類が居住していたと考えられている。この時期の遺跡に野川遺跡、飛田給北遺跡、野水遺跡、仙川遺跡、入間町城山遺跡がある。そのほとんどは野川や仙川沿いの崖線の上に存在している。

縄文時代
市域からは特に縄文時代の大規模な遺跡が多く見つかっている。代表的なものに入間町城山遺跡、蛇久保遺跡、東原遺跡、原山遺跡、飛田給遺跡など(いずれも縄文中期)がある。縄文晩期の下布田遺跡からは国の重要文化財に指定されている土製耳飾(江戸東京たてもの園保管)なども出土している。

弥生時代
市域に弥生文化が到達したのは、弥生中期後半とされる。この時期、野川や仙川沿いの低湿地に小規模な水田が出現している。集落は引き続き崖線上に築かれている。主な遺跡として深大寺城山遺跡、染地遺跡、入間町城山遺跡がある。

古墳時代
市域に古墳が出現するのは5世紀中頃で、7世紀までに相当数の古墳が築造された。その大半は円墳である。代表的な古墳群は下布田古墳群、上布田古墳群、国領南古墳群、飛田給古墳群である。現在までに確認された古墳の数は23基である。ただし、大半の古墳は墳丘部が崩されており、石室や濠しか残っていない場合が多い。
古墳時代末期になると崖線周辺に横穴墓が築かれる例も現れる。これらは野川沿いの深大寺付近や入間町の蟹沢に集中している(御塔坂横穴墓群、上野原横穴墓群、蟹沢横穴墓群)。
この時期の集落も基本的には弥生以前と似たような場所に築かれている。代表的な集落跡として深大寺城山遺跡、蛇久保遺跡、上ヶ給遺跡、染地遺跡、飛田給遺跡、上石原遺跡がある。

奈良時代

奈良時代には、市域は武蔵国の多麻郡に属した。現在の府中市に置かれた武蔵国国府から近かったこともあり、国府に勤務する官人の一部が市域に居住していたと考えられている。
主な遺跡として飛田給遺跡、上石原遺跡、下石原遺跡、上布田遺跡、染地遺跡などがあるが、特に上布田遺跡や染地遺跡からはかなり高価なものと思われる装飾品が出土している。染地遺跡からは軒丸瓦、緑柚陶器などが出土しているので、郡衙が存在していたのではないかと考えるものもいる。入間町城山遺跡からは「高大寺」と書かれた土器も出土しており、この時期に仏教も市域に伝わったのではないかと考えられている。また市域に存在する深大寺の銅造釈迦如来倚像(国の重要文化財)は7世紀のものである。

平安時代
平安時代の市域には、武蔵七党のうち西党の狛江氏、村山党の金子氏が進出していた。狛江氏の館は現在の晃華学園敷地内に存在したと考えられており、平成6年の発掘では館の周囲を取り巻く空堀の跡と思われる遺構が見つかっている。一方、旧金子村(現在の東つつじヶ丘1 - 3丁目)は金子氏の所領であったという説もあり、現在の三鷹市新川にある島屋敷跡は金子時光の館跡ではないかと考えられている。

鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、武蔵国は鎌倉幕府の直轄地「関東御分国」に含まれた。

戦国時代
1537年、後北条氏と対峙していた上杉朝定が深大寺城を築く。しかし朝定はこの年のうちに後北条氏に本拠地を急襲されて敗れており、深大寺城での戦闘は無かったと考えられている。その後、市域は中条出羽守、太田康資(新六郎、太田道灌の曾孫)、太田大膳亮ら後北条氏の家臣団に分け与えられた。

江戸時代
甲州街道に布田五宿が置かれ、国領宿(日本橋より4番目の宿場)・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿(同8番目)が設置された。布田五宿は本陣と脇本陣がなく旅籠だけの小さな宿場であったが、布多天神社の市場は賑わった。

明治時代
明治維新後、明治政府は廃藩置県を行い、旧武蔵国内は新設された府県に分割されることとなる。1869年(明治2年)に品川県が設置され、現在の調布市域を含む旧武蔵国多摩郡は当初は品川県に属した。

1871年(明治4年)12月25日の第1次府県統合により東京府が設置され、これにより同年に品川県は廃止された。翌1872年(明治5年)に施行された大区小区制により、多摩郡は品川県から東京府(一部は入間県)へ移管された。

しかし神奈川県知事陸奥宗光が、多摩郡の一部が横浜の外国人居留地の外国人遊歩区域に含まれると上申したことから、翌1872年(明治5年)に多摩郡は神奈川県(1868年成立)へ移管されることとなった。同年中にまず多摩郡のうち東京府に移管された区域が、次いで入間県に移管された区域が、それぞれ神奈川県へ移管された。さらに多摩郡東部の一部(現在の中野区・杉並区)のみ東京府へ戻された。

1878年(明治11年)には郡区町村編制法を制定して大区小区制を廃止した。これにより同年、東京府では東京15区を置くとともに、東京府内の旧多摩郡域を東多摩郡(1896年に南豊島郡と合併し豊多摩郡となる)とした。また同年、神奈川県内の旧多摩郡域が北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡に分割された。

さらに郡区町村編制法に代えて、1889年(明治22年)4月1日に市制・町村制が施行開始され、日本全国の基礎自治体として市町村が置かれることとなる。これにより同日、神奈川県下にあった北多摩郡に、現在の調布市域にあたる以下の2町村が発足した。

調布町 - 布田小島分村、上石原村、下石原村、上布田村、下布田村、国領宿、上ヶ給村、飛田給村が合併。
神代村 - 深大寺村、佐須村、金子村、柴崎村、下仙川村、入間村、大町村の全域および北野村の一部が合併。
旧多摩郡の東京府への移管は以前から議論されていたが、1892年(明治25年)、神奈川県知事内海忠勝と東京府知事富田鐵之助は、神奈川県に属していた北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡(三多摩)の東京府への移管を内務卿井上馨に建言した。東京府民の水がめとして玉川上水の水利権管理と奥多摩地域の水源確保を理由としていたが、『五日市憲法草案』に代表されるように自由民権運動が盛んであった多摩地域と、現在の神奈川県地域を分断する意図もあったとされ、多摩3郡と神奈川県内では移管反対運動が起きた。
翌1893年(明治26年)「東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律案」が公布。同法可決時に多摩3郡の首長は移管反対の意思表示として神奈川県知事へ辞表を提出したものの、同年4月1日付で多摩3郡は神奈川県から東京府へ編入された。これにより現在の調布市域は東京府に属することとなり、ほぼ現在の東京都の境域が確定した。

大正時代
1913年(大正2年)4月15日、京王電気軌道(現:京王電鉄)が笹塚駅 - 調布駅間を開業。これにより市内に鉄道が開通した。また同日、鉄道未成区間の補完として調布駅 - 府中 - 国分寺駅間で乗合バスを開業したが、これは東京初の乗合バスである。京王電気軌道は沿線で電気供給事業も行い、調布市域にも電気の供給を開始した。これらは武蔵野の農村であった調布の近代化を象徴する出来事であった。

戦前 - 戦中
1932年(昭和7年)6月1日、武蔵野乗合自動車(現:小田急バス)が設立される。東京府北多摩郡調布町布田(現在の調布市布田)に本社を置き、調布 - 三鷹天文台 - 武蔵境、調布 - 野崎 - 吉祥寺の2路線で営業開始した。この「調布」停留所は初代調布駅の近く(「調布銀座」商店街付近)で、旧駅舎近くに武蔵野乗合のバス折返場があった。現在も小田急バスの「調布」停留所(旧甲州街道沿い)として残っている。

第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)4月30日には調布飛行場が竣工し、戦時中は主に陸軍の飛行場として使用された。敗戦により調布飛行場は進駐軍に接収され、1973年(昭和48年)の全面返還まで在日米軍に使用されることとなる。
また1943年7月1日付で東京都制が施行され、東京府が廃止され東京都となり、北多摩郡調布町・神代村は東京都に属することとなった。

戦後
戦後の1952年(昭和27年)11月3日、神代村が町制施行し神代町となった。翌1953年(昭和28年)に町村合併促進法、1956年(昭和31年)には新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進され「昭和の大合併」と呼ばれた。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „調布市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Mitsuyoshi Kondo, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons