佐賀市: 歴史
=== 歴史 ===
縄文時代から弥生時代にかけて、市南部の平野地域はまだ海底であったが、度重なる海進・海退と河川による土砂運搬により、今ある佐賀平野が作られる。また有明海の干拓によって平野面積がさらに拡大した。
律令制下では肥前国に属し、現在の佐賀市大和町に肥前国国府が置かれた。戦国時代には龍造寺氏をはじめ、鍋島氏・石井氏・高木氏・於保氏・八戸氏などの在地領主が割拠していたが、龍造寺氏がそれらを統合して戦国大名化。城下町の基礎が形成された。龍造寺氏が絶えたのちの1608年(慶長13年)、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は、佐賀城築城後に佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。
佐賀藩は別名を肥前藩ともいい、明治維新において、版籍奉還を上奏した「薩長土肥」の1つとなった。また、長崎に近かったため西洋の科学技術を積極的に導入し、幕末には精錬方(藩立の科学技術研究所)、反射炉、三重津海軍所(造船所・海軍修練所)などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機(エーセルテレカラフ)、暗箱カメラなどが外国の技術者に頼ることなく独力で製作され、日本の科学技術近代化に大きく貢献した。
明治時代は佐賀県の併廃とともに佐賀県、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県、と変わり、最後には佐賀県が分離されてその県域に入った。1889年の市制施行時の市域は現在の市中心部の一部だったが、昭和の大合併により旧佐賀市、平成の大合併により現在の佐賀市の市域となった。これにより市域は福岡県境へと拡大した。人口規模は特例市の要件(20万人)を満たし、2014年4月1日付けで移行された。
佐賀市は太平洋戦争の空襲攻撃において、アメリカ軍による爆撃優先順位が180都市中101番目と決して低くなかったが、幸いにも佐賀空襲が誤爆攻撃になった事により中心部の被害は免れ城下町の古い街並みがそのまま残った。しかし、その後目立った街並みの保存運動などが起こることが無く無秩序な建て替えなどでその多くが失われ、佐賀市歴史民俗館建物群がある旧市街東部の長崎街道沿いなどで江戸-大正にかけての町屋建築や明治 - 大正にかけての洋風建築の街並みを見ることができるのみであり、その他の旧城下市街では纏まった古い街並みは少なく古い町屋や洋館が散在する状況にある。ただし、江戸時代からの町割りや水路は良好に残されており、江戸時代の石積護岸の水路や石橋が今も現役で使用されている。
佐賀市は1970年代以降開発が急速に進められて都市らしくなっていったが、それまでは都心の一部を除き農村と変わらない風景だった。
紀元前5000年ごろ(縄文時代前期)- 金立町千布の大規模貝塚群である東名遺跡が形成される。縄文海進のピーク期で、同時期の貝塚としては筑紫平野で唯一、西日本でも最大級の規模の貝塚。
2世紀初 - 3世紀中(弥生時代後期)- 大和町川上の大規模な集団墓地である七ヶ瀬遺跡が形成される。青銅鏡4面が出土し、うち1面は鉄刀、勾玉と「三種の神器」がセットで埋葬されており県内初である。
4世紀末 - 5世紀前半(古墳時代)- 金立山南麓の前方後円墳である銚子塚古墳が築造される。
5世紀中 - 大和町川上の山南麓の前方後円墳である船塚古墳が築造される。
5世紀末 - 金立山南麓の円墳である西隈古墳が築造される。
6世紀 - 7世紀ごろ - 久保泉町川久保に帯隈山城の原型である山城が築かれたと推定される。
8世紀前半 - 大和町久池井の肥前国庁跡が成立(推定)。以後、9世紀末ごろまで機能していたと考えられる。
12世紀 - 大和町春日の山城である春日城が成立。
12世紀 - 16世紀(鎌倉時代・室町時代) : この時期平野部では、小地頭・家人・有力百姓らが新田開墾を進めながら、自らの領地に環濠の発達した城郭を築いて割拠していた。このころの代表的遺構に、久保泉町の古村周辺遺跡がある。やがて戦国時代に入ると九州千葉氏からの流れを汲み水ケ江城を拠点としていた龍造寺氏が戦国大名として北部九州の広範囲にまで勢力を拡大するが、大友氏に押されて肥前東部の支配に収まる。17世紀初頭には領家が鍋島氏に継承され、佐賀藩領主となる。
1602年(慶長7年) - 佐賀城本丸の改修が始まる。
1611年(慶長16年) - 改修が終了し、佐賀城が完成する。
元和年間(1615年 - 1624年ごろ) - 成富茂安(成富兵庫茂安)によって石井樋が建設され、多布施川を通した嘉瀬川から佐賀城下への取水および洪水調節が図られる。
1683年(天和3年) - 鍋島光茂が蓮池藩・小城藩・鹿島藩ら三家格式を制定して三支藩を完全に支配下に置き、さらに世禄制を実施した。
1726年(享保11年) - 大火により本丸が焼失。政務の中心を二の丸へ移す。
1835年(天保6年) - 大火により二の丸が焼失。政務の中心を再び本丸へ移す。
17世紀 - 19世紀(江戸時代・明治時代前期) - 佐賀藩は当初の厳しい財政を新田開発や倹約により立て直し、長崎街道を有しまた長崎警備を行っていたという地の利から先進的科学技術の導入を進めたことで、幕末には高い軍事力・技術力を有するに至った。倒幕運動への参加は戊辰戦争からと後発だったが、以降明治政府へ多くの人材を輩出する。
1870年(明治3年) - 佐賀藩の士族を中心とした佐賀移民団286名が組織され、北海道釧路郡の開拓にあたる。
1871年(明治4年)9月4日 - 佐賀県(当時)を伊万里県と改称し、県庁が伊万里に移される。
1872年(明治5年)5月29日 - 伊万里にあった県庁が佐賀に移され、伊万里県から佐賀県(当時)に再改称する。
1874年(明治7年)2月1日 - 3月1日 - 士族反乱の嚆矢、佐賀の乱がおこる。
1889年(明治22年)4月1日 - 市制施行により現在の佐賀市中心部を市域とする佐賀市が発足。
1891年(明治24年)8月20日 - 九州鉄道佐賀線(現在の長崎本線)鳥栖 - 佐賀間が開通。
20世紀 - 明治の佐賀は、農業および繊維業中心の軽工業を軸とした産業都市、また県庁が所在する政治的拠点として、開発が進められ人口が増加していくとともに、地方都市として成長する。
1933年(昭和8年)12月18日 - 佐賀玉屋が開業。
1935年(昭和10年)5月25日 - 佐賀線佐賀 - 筑後大川間が延伸開業。
1945年(昭和20年)8月5日夜半 - アメリカ軍による佐賀空襲。佐賀県下初の焼夷弾爆撃で63機が2196発、439トン投下。
第一次世界大戦後は農業から商工業へ主要産業がシフトするが、重工業や機械工業などの成長は伸び悩む。九州の他都市と比べて相対的に緩やかではあるが、佐賀都市圏の中心都市として開発が進められ、1990年代まで人口は増加を続ける。 …