八戸市: 歴史
=== 古代 ===
縄文時代の是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文時代後期の米粒が出土している。風張から出土した合掌土偶は国宝となっているほか、是川からも数々の工芸品が出土している。
1191年(建久2年)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされている。南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。1334年(建武元年)、南部師行が根城を築き、根城南部氏(遠野南部氏)の祖となった。また、市内には築城年不明の櫛引城もあり、古くから櫛引八幡宮の神事に深く関与していた櫛引南部氏が居城としていた。
16世紀後半、櫛引南部氏と根城南部氏が互いの城に攻め入るなど、領内では南部氏一族同士の内紛が相次いでいた。同じ頃、南部氏の一族である南部右京亮こと大浦為信(津軽為信)が九戸南部氏らと手を組んで津軽地方を統一していく中、盛岡藩藩祖南部信直は出兵して為信に対抗しようとしたが、信直と対立する櫛引南部氏、七戸南部氏、九戸南部氏らの反対によりなされなかった。その後も、櫛引南部氏らは浅水城や苫米地城に攻め入るなど、南部信直勢力への抵抗を続けたが、豊臣軍により鎮められた。
根城南部氏は1627年(寛永4年)、三戸南部氏(後の盛岡南部氏)の命により遠野に居城を移した。
転機となったのは江戸時代前期の1664年(寛文4年)である。盛岡藩2代藩主・南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため、盛岡藩は御家断絶の危機を迎えた。江戸幕府は盛岡藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸南部氏の祖となる南部直房により八戸城が築かれた。これが八戸藩の始まりである。八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、現在の岩手県久慈市までが八戸藩だった。
この際、八戸藩に逆恨みをした盛岡藩により、八戸藩初代藩主直房と八戸藩2代藩主直政が暗殺される事件が起き、当時幕府が実際に調査を行なった。その後、盛岡藩より通信を3代八戸藩主に迎えたが、以後、盛岡藩と新たな姻戚関係が結ばれることは無かった。八戸藩は支藩ではなく独立した藩であったこと、藩主暗殺事件の因縁や姻戚関係が疎遠であったことも関係し、八戸藩には盛岡藩を「本家」と見る雰囲気は希薄であったとされる。
戊辰戦争の際、八戸藩は弘前藩や盛岡藩と同じく、幕府側の奥羽越列藩同盟に属すこととなる。途中で弘前藩は新政府側の官軍に寝返ったが、八戸藩は、当時の9代藩主南部信順が新政府側の薩摩藩出身だったこともあって当初より新政府寄りとされ、盛岡藩や仙台藩から仮想敵として見なされていた。そのため八戸藩は、列藩同盟に参加は続けながらも、弘前藩よりも先に官軍に寝返っていた久保田藩と水面下で連携するなど、新政府側の姿勢も見せ難局を上手く切り抜ける。八戸藩は「盛岡藩には引きずられない」という意識から、不戦に徹したとされる。弘前藩と盛岡藩が戦った野辺地戦争においても、盛岡藩から強制されたため消極的に参加したが、一人の死傷者も出さなかった。戊辰戦争後、列藩同盟に積極的でなかったとされ、八戸藩は弘前藩と同様に朝敵扱いをされず、朝敵の盛岡藩になされたような減封・転封等の処罰は行われなかった。
八戸城は寛永4年 (1627年)に築城され、現在の三八城公園にあった(したがって八戸公園は城跡ではない)。城下町には三日町、十三日町など市の立つ日を名前とした街が並んでおり、現在も八戸市中心市街地となっている。
明治4年(1871年)、八戸藩は八戸県を経て、弘前県など5県と合併し青森県となる。この合併を画策したのは、元八戸藩士で八戸県大参事の太田広城と、元会津藩士で斗南県小参事の広沢安任である。両人は8月13日、5県合併案を政府に建言し、内務卿大久保利通をはじめ明治政府高官による事情聴取の結果、9月4日に館県も含めた6県の合併令達に至っている。
1870年(明治2年)、天候不順が続き凶作。五穀の収穫は皆無となった。
1915年(大正4年)、鮫浦港修築工事が開始され、1929年(昭和4年)に商港に指定された。
1924年(大正13年)5月16日、大火があり1223戸が焼失。
1935年(昭和10年)6月8日、鮫町天女ヶ窪にあった飛行場で皇国飛行協会八戸支部主催の八戸防空飛行大会が開催。離陸中の飛行機(サムルソン乙型偵察機)が誤って観客者の中へ突っ込み死者3人、重傷1人を出す事故が起きた。
八戸市には馬淵川と新井田川という比較的大きな河川が流れている。特に馬淵川は蛇行が激しく流量も多いため、水害の多い河川だった。特に河口部分で馬淵川が大きく曲がって新井田川と合流するような形で太平洋に注ぎ込んでいた。1937年(昭和12年)、馬淵川の改修工事(河口付近の直線化)が難航し、戦争のために中断された。1949年(昭和24年)に工事が軌道に乗り、新産業都市に指定された1961年(昭和36年)に完成した。これにより水害が減り、臨海地域を工業地帯として利用可能となった。
1947年(昭和22)8月10日、昭和天皇が館村役場、八戸魚市場、市内の工場、牧場、小学校などに行幸(昭和天皇の戦後巡幸)。また昭和天皇は、1977年(昭和52年)10月3日、第32回国民体育大会開催に合わせ市内を再訪。八戸市公民館、八戸市体育館などにも行幸した。
1961年(昭和36年)5月28日、台風4号接近に伴いフェーン現象が発生。翌5月29日、白銀町で放火により火災が発生。フェーン現象の強風により火災が延焼し、死亡2名・負傷者16名、建物全壊2棟、半壊及び破損10,665棟、被害額3,326,020千円の被害が発生した(白銀大火)。後日、天皇・皇后から御救恤金が県に対して下賜された。
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波により臨海部は大きな被害を受けたものの、岩手県以南よりは比較的被害が少なかった。
2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染症対策のための市内の小・中学校で臨時休校を実施。祭事などのイベントも中止された。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、三戸郡八戸町が発足。
1901年(明治34年)7月1日 - 三戸郡長者村と八戸町(一次)が合併、八戸町(二次)が発足。
1929年(昭和04年)5月1日 - 三戸郡八戸町・小中野町・湊町・鮫村が合併、市制施行し八戸市が発足。この時点の人口は、5万1529人。
1939年(昭和09年)5月1日 - 初代「八戸市民歌」を制定。
1942年(昭和17年)4月1日 - 三戸郡下長苗代村を編入。
1954年(昭和29年)12月1日 - 三戸郡是川村を編入。
1955年(昭和30年)4月1日 - 三戸郡館村、上長苗代村、市川村を編入。
1955年(昭和30年)10月20日 - 三戸郡豊崎村を編入。
1958年(昭和33年)9月10日 - 三戸郡大館村を編入。
1961年(昭和36年)5月29日 - 白銀大火。
1964年(昭和39年)9月14日 - 2代目「八戸市民の歌」を制定。
1999年(平成11年) - 市制70周年を記念し3代目市民歌「新・八戸市民の歌 〜新しい風〜」を制定。
2001年(平成13年)4月1日 - 特例市へ移行。
2005年(平成17年)3月31日 - 三戸郡南郷村を編入。地域自治区である南郷区を設置。
2017年(平成29年)1月1日 - 施行時特例市から中核市へ移行。